まだ創作意欲もウェブサイト更新意欲もなく、ましてや元々決めていたタイトルを一つずつ更新していく意欲も湧かないので、とりあえず適当に記事を作ってみる。記事の正確性は旦保できないのでその点はご了承頂きたい。
言葉は私の頭の中に現れる。言葉を頭の中で文字に置き換えて出力することはできるが、それらを可視化しないのでいつまで経っても思考が堂々巡りをする。折角良さげなアンサーあるいは証明手段を仮説に対して出せたとしても、検証することなく終わる。検証の第一歩は人に話すことかもしれないし、ラボでの実験計画を立てることかもしれない。人文学分野におそらく考察の大半は該当すると思うのでラボで実験はできない。精々レポートを書いて然るべき所に提出するくらいしか方法がない。だが、ここで一つ問題が浮上する。
絶望的に記憶力がない。要するに、せっかくいいアイディアが出たとしても数分後、いや数秒後には頭から消え去る。非常に残念である。パソコンの画面に重い腰を上げて向かう頃にはアイディアの片鱗も脳みそから出力されない。ぼうっとしている時にはいくらでも出てくるのだが。
と、いう訳で行動だ。PDCAのDの部分だ。しかし行動ができない。余程鮮明な仮説や命題ならば覚えていたり、人に話すこともできるが、そうはいかない。行動の前に好奇心の問題もある。好奇心は行動の原動力だとはよく言うがそれがあまりない。ワクワクもトキメキも滅多に顔をみせてくれない。ゆえに行動が遅い。
正確性の問題もある。私は世界を大雑把に括って観察している割に、いざ何かをしようとするとやたら厳密性を求めだす傾向にある。それも具体的な規則や方法論に沿ったものではなく、謎のこだわりとしか言いようがないものである。ちょうど先に頭の中で理想像が作り上げられて、後からその型に当て嵌めようとするようなものだ。もちろん理想通りに上手くいくはずもない上、理想像は強固たるものではなく豆腐のようにふにゃふにゃしたよく分からないものなのでいつまで経ってもたどり着かない。というか、たどり着くのを諦めている。ベストを最初から目指して、成功するはずもないのだ。
惰性が行動の邪魔をする。少し前、コンフォート・ゾーンという言葉を知った。私にとってのコンフォート・ゾーンは永遠に消費者側にある。Twitter、ゲーム、YouTube、なけなしの漫画と本。たまに気になっている分野の深掘り。全部惰性の産物である。生産者側に回ることはコンフォート・ゾーンから抜け出すことそのものである。少なくとも、私にとっては。
文章が今の私にとって最良のアウトプットツールだ。人に喋っても一人で抱えては忘れるを繰り返しても満たされることはない。文章にしたところで満足がいくわけでもないが一応「生産」というていにはなるうえ、後から読み返して笑う事もできる。まだましというわけ。書くというのはそれだけで疲れるけども。
たまに大仰と言われる。抽象度が大きく上から目線のようになるという事だと解釈している。そんな言葉をかけられた次の日は落ち込むけれどもだからなんだ、とも思う。このサイトだと更に大仰っぽい雰囲気なる。教師然とした口調にもなる。大仰っぷりが加速するので大目に見てほしい。
動きたいけども身体は常に重い。言葉が脳みそから溢れだしそうなのに注ぎ先が見つからない。注ごうとしても謎の制限と規制が掛かる。惰性も邪魔をする。結果、慢性的な鬱状態に陥り、過去と現在と未来を行き来しては泥沼に沈みこんでいく。
文章を書ける人は、物語を書ける人は、ウェブサイトを更新し続けられる人は、それだけで奇跡だ。才能だ。
ここまで書いて思ったが、結局のところ私はただの自堕落な無キャの大学生だ。TwitterとYouTubeが友達の。まあ実際の友達もいるし部活もバイトもあるが慢性的に自堕落な状態である事は否めない。全てを解放しきれない、しようともしない、二十歳にもなって厨二病を持て余しながらカウンセリングセンターに駆け込むような人間なのである。
一旦さようなら。そしてまたこんにちはウェブサイトの世界。次に会うのは神経生理学教室のラボラトリだ。いつかこの文章を読み返して死にたくなる日まで待つ。
コメント